J 「信心の焦点、御理念による助かり。「無」。合楽理念は幸福への鍵。
昭和五十七年六月二十一日 朝の御理解
御理解 第八十節 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたの ではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれ た者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、 年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬 うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれ ぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」
昨日、ここの青年会の十五周年を記念しての青年大会がございましたが、ここを少し早く退がって呼びにくるという時間を待たせて頂いとる間、テレビを見せてもらいましたが、丁度ある禅寺の大変偉いお坊さんと00大学の教授といわれる心理学を専攻しておられる先生と「現代青年の悩みに答える」というような意味の・・・・私ははじめから見ませんでしたけど、そういう題のもとに二人の対談が長く続いておりました。
禅の事、心理学の事の、いわゆる話なんです。その話の中に白隠禅師の事が話に出ておりました。ま、大変な禅の大家で知られております方なんですが、晩年はノイロ-ゼになって肺病で亡くなられたという事です、ね。
又、支那の禅の、ま、宗師者といわれる人は、ま、禅の事をいわれるので、ゲリラに捕まって処刑されておられます。その時にあたり四方に響きわたるように大きな声で、ね、死にたくない、痛い、痛いというて亡くなったという話をしておられます。 これも夕べ、もう、遅うでしたがこれがテレビで何か、インドの先にある島に、原始仏教の、ま、お話が出ておりました。
とにかく、お釈迦様が一つの大きな悟りをされる時に四つの大切な事がある。というその四つの事がです、みんな形から入る事だけを教えておられますね。例えば、呼吸法、息の仕方、座り方と姿勢を正してこう、というような話をそれはやっぱり稽古をしますと、ね、水の中にもぐってやっぱ一分も、水の中に息をとめる事が出来るとかね、ま、そういうような話がある。まあ、本当になるほど過去の宗教、昨日、そのう偉い禅のお坊さんという方、大変品の良い、ま、大変学徳もありそうなお方でしたが、アメリカあたりまでも禅のお話をしに行かれたとい方なんですから。
仏教は地獄を説き、キリスト教は天国を説くといお話をしておられました。私は昨日たまたま、ここでは青年大会がある。そのお坊さんが話しておられるのも、二人で話しておられるのも、現代青年の悩みに答える。果してこのような話で現代青年の悩みが解けるだろうかと、ね、まあ、なるほど禅の道・・・・いう事によって心を落ちつけたり、ま、一つの悟りのようなものが、ま、開けたりいわゆる確かに、物の見方考え方が変わってくるようなおかげを頂かれようけれども、その、ま、禅の大家といわれる、なら白隠禅師が晩年はそういうね、ノイロ-ゼで又肺病で亡くなられるといったようなところがどうもつじつまが合わない感じが致しませんか、皆さん、ね。
形から入るのではなくて金光教の場合はどこまでも、いうなら、和賀心、といわれいわゆる合楽では心一つですべてをつくるとこういわれる。
昨日は講師に光昭が依頼を受けて、お話をしておりましたが、ま、光昭の念の入った長いお話を昨日はじめて聞かせてもらったんですけども、も、本気で取り組んでおる者には勝たないなあと思いました。おそらく、又、ビデオテ-プにとってあるだろうから、いつか、ま、一時間余りのお話ですから聞いてみて下さい。とにかく、私は思うのにね、信心が信心を教える。これはいうなら、光昭の一つの悟りでしょうけれども、聞いてるうちに幾箇所もなるほどそうだなと、私が教えられるところが幾箇所もございました。お話の中になるほど信心が信心を教える、ね。
仕事が仕事を教えるというがです、それも絶対の間違いのないところに焦点を置いての信心という事を、私は昨日たまたま、そういう偉いお坊さんの話やら原始仏教の話やら聞かせて頂いてですね、いよいよ教祖金光大神の御信心の素晴らしさという事を思うのです。
昨日、私、最後一言挨拶をしてくれという事でしたから、ま、二、三十分お話をさせて頂きました。お話の中に頂きますのがそれも昨日出がけに、西日本新聞に何か大きな見出しでですね、・・・の開発の鍵という事が書いてあったんです。昨日の新聞朝刊を見て下さい。私よく読みもしませんし又、読めもしませんから今は目が悪い。 けど大きな見出しのとこだけ出がけにちょっと感じたんですね。・・・を開発の鍵だという事。いわゆる数千年の宗教の歴史というものを、わかればわかるほど、ひもとけばひもとくほど、も、大変な、いうならば、その人間技では出来ないような修行に入って、それで悟りが開くとか、ま、心を開いていくわけでしょうけども、禅師じゃないけども、ノイロ-ゼになったり肺病で亡くなったりというようなもので、結局いかに極めれば極めるほど難しゅうなりかという事。
昨日光昭が話とりましたが、極めて行けばいくほど楽しゅうて有り難うなるものだもし、信心が難しいというならば、それはあなたがその気にまだなっていないからだというような事を言ってましたですね。も、その気になったら信心は、合楽、御理念に基づいたら楽しうなるものです。有り難うなるものです。しかもそれがです、今まで聞いた事もない世界が、いうなら、仕事が仕事を教えるように、信心が又新たな信心を生みなしていくです。
人間の幸福の条件が足ろうてくる、いうならば、お徳にもつながってまいります。 昨日、青年会の方達の骨折りで「信楽」という本が出ております。皆さんも求めて読んで下さい。そのはじめのところに、私が長年、長年ちいうかやっぱり十年分位あるでしょうか、私がここであの、一寸紙きれに神様から頂いた事を書いたりしとりますね、それが沢山、こ、たまっとったから、も、これは捨ててくれと言うて事務所の方へ渡したものを、それを皆が見て、いやあ、これはもう捨てるのには勿体ないと言うて、それをそのまま写真に写してから何冊かの本にしてあります。
だからそれを中から抜粋してあの厚い、あんなに沢山あっただろうかと思うほど、それを全部御本になっております。中には写真入りで書いておったそれを、写真でしてあります。あの、はじめのところに、昨日石田先生が言うておられます。まるっきりこれは仙涯さんの書かれたような絵で、絵を私は描いた事がないですけれども、御心眼にね、あとから見て下さい。出てますから。無とい字、無という字、それを丁度屋形船のような感じで頂いたんです。それを無という字を、ま、丁度見ると屋形船のような感じで下に何か書いてある。そして末の世ま持って行かれるのは神徳じゃと書いてある。
本当、昨日石田先生が言われるのを聞いてから、ほんなこて仙涯さんの絵のごたるなあ、と私も見てから思ったんですて、ね。
とにかく、あの世まで持って行ける、この世あの世を通してね、久留米の石橋先生が「この世は徳の船に乗って渡れ」とおっしゃる。その徳の船というのは、無の徳である。無というのは、なら、仏教的にいうもう、とにかく「無」になってしまうというものではないのです、ね。
酒も飲まれん、肉も食べられん、家内も持つ事はでけん、といったような、も、自分というもの、そういうものを開いていくというものではなくてですね、いうならば我情です我欲です、ね。その「無」という字が丁度船のような形になっておる。
そして神徳とはあの世まで持って行かれるものだ、とこう下に書いてある。早速皆さん求めて見て下さい。もう、私は昨日、これは一般信者ではわからないだろう。これは、本当にあのう、全国のお道の教師の方達に一冊差し上げたらどうだろうかと思うほどしに、ま、いうならば、プロ向きの感じ。私が頂いたその理解づけてないですからね。それは大変難しい事かもしれません。その中に沢山出ているんです。
いっちょ、いっちょ番号が打つてあるです。だからどうして、この番号を打ってあるだろうかと言うたら、これは後々ね、あの信楽の中にある何号、百号なら百号、九十号なら九十号を【 】かく説いてあるという事をすぐ見れるように番号がみんな打ってあるです。
皆さんは合楽で、御理解を頂きつけておられるからわかるだろうかもしれんけども普通の一般信者じゃわからんのじゃないかと思われる。とにかく神様に、それに只、書いた事をその時その時に御理解の、確かに芯になった言葉などが沢山集めてあの一冊の本になってるんです、ね。ですから「無」という字、徳を受けるという事。なら金光教でいう「無」なるという事はね、我情を取るのであり我欲を取るのであり、我が身は神徳の中に生かされてある喜びを頂く為にはどうしても、その修行がいるんだとこうその修行を御理念に基づかせてもらうとです、誰でもその気になれば出来る。 昨日光昭が言うてましたが、もう、せずにはおれないのである。そうせねば馬鹿らしいのである、ね。そこには難しいという事ではない、いうなら、楽しうして有り難うしてという事になるのですから、ね。
今日の、ま、御理解とは全然かけ離れたような感じの事皆さんに聞いて頂いたんですけども、私は、今日この御理解から感じ、言いたかった事は、いうならば、年寄りを大切にせよとこう言われる。教祖様があぁ教えられるのであるから自分が年寄りに対する思い方が足りなかったと本気で年寄りを大切にしょうという事は、もう、教えを行ずる事になるのです。はあ、本当にはじめてわかった。本気で年寄りを大切にする事になったら、次から次と生みなされてくるもの、次から次と次の信心がわからせて頂くという事なんです。それを今日皆さんにわかって頂きたいと思う。
昨日の光昭の話からです、ね。なるほど親の私が聞いておってなるほど打ち込んでるなあと最近は思うのですが、打ち込んでいったらああいうお話も出来るようになりああいう心も開けてくるんだなという事を感じましたから、なら、私、いろいろ、ま仏教の偉いお坊さんの話やら、原始仏教の、ま、テレビで見たその話を聞いて頂いたんですけれども、も、全然ね、その、人間が幸福になる為のいうならば、原点ともなるところが踏みちがえておる、考えちがいされておる、ね。
教祖金光大神は、人間が幸福になる、も、絶対幸福になれれる道を、しかも、いうならば、解明されたわけです。ね、
人間の幸福というのはね、こういう心の状態になるという事に努めなければ、ね、人間の幸福になれない。又、こうすれば、幸福になれる、も、約束をされたように幸福の条件が足ろうてくる。その解明されておるのですけども、いうなら、天地書附なんかにそれを感じる事が出来るけですけれども、そんならその天地書附にある和賀心をどういうような生き方にならせて頂いたら、和賀心がこれに生まれてくるかといういうならば、教祖が解明されたものの、又、鍵のようなものが御理念だと思いますね 人間が幸福になれる絶対の要素というか、ね、条件というものがです、御理念によって足ろうてくるんです。それははじめからあれもわかる、これもわかるじゃなくて一言でもいいです、例えば、これは、ま、普通一般まあ道徳的な表現でも年寄りを大切にせんならんというような事を申しますけれども、教祖が、こう教えておられるのだから、本気で自分が本当に年寄りを大切にしていなかった事をわからしてもろうて本気でそれに取り組ませて頂いたらそこから、ね、いうならおかげが伴うてくる。
そこから次の信心が又、生まれてくるという事を昨日私は、光昭の話の中から感じさせて頂きました。教祖金光大神は、人間が絶対幸福になれる道、今まで数千年、みんなが幸福になりたい幸福になりたいと言うて、ま、様々な昨日私は・・・・何というですか、大化の改新とかね、武家政治のころとか、明治維新とかいったような言葉を使って、もう、とにかくより幸福になりたい為に、様々な政治向きといったようなものも変わってきたんだけれども、一向人間の幸福にはつながらなかった。
どういう祭り事をされても、やはり戦争は続いておった、ね。そこになら、教祖金光大神・・・・なら、そこに様々な仏教が、ね、ま、偉いお坊さん達が現れて、様々な宗教宗派が生まれたそれはしかしあまりにも難しい、いや、難しいだけではない、極めて行けば行くほど難しくって、しかも最後にはノイロ-ゼになって亡くなられたとか、肺病で亡くなられたとかいうような結果しか生まれていないという事、ね。それになら、金光大神のみ教えをひもとかせてもらうと誰でもその気になれば入っていけれる教えが沢山残されておる、ね。人間幸福になる事の、ま、お話が沢山残っておるけれどもそれを又いうならば、自分の血肉にしていく手立て、いうならば鍵のようなものが説かれてなかった。合楽の場合はその人間が幸福になる、そこにある教えのかぎ、ね、頂くようなもんだというふうに、ま、昨日私は、青年大会の時に話をさせて頂いた事でしたけれども、ですかからね、合楽に御縁を頂いておっても、それを行ようともしなければ、その鍵を使おうともしなかったら,いつまでたっても本当なものは開けてきませんよ。それにはね、誰彼という事ではない。いうなら、今日の御理解じゃないですけれども、ね、只、普通の道徳的なお話と思わずに、教祖様が教えておられるんだと頂いて、本気で年寄りを大切にする生き方をより深く広く頂かせて頂く事になるとですね、昨日光昭の話を聞いて思った事は、ははあ、信心が信心を教えていく、その焦点理が間違っていないから次次と本当な事から本当な事と心が開いていく、それが楽しい。それが有り難いと、ま感じておるだろうと思われるようなお話でした、ね。
過去の宗教はそういう人間がその気になれば幸福になれれる道を説き得なかった、ね。まあ、人間の身体でいうなら、手だけは説いた。足だけは説いた。幸福でというと手が出たり足が出たりしておるだけであって、全体を説かれたのは教祖金光大神、ところが、それも、ならね、やはり教祖のみ教えのみ教えを本当に聞かせて頂く、だれでもが幸福になれれる為の教えにする為には、やはりね、合楽にかけられた神様の願を感じると同時に、御理念に基づくそれは丁度、人間が幸福になる素の入っておる鍵を開けるようなものだと思うです、ね。
これは、ま、禅の偉いお坊さんのお話ですからね、間違いはないと思うんですね。 だから、そういう事は人間がおかげを頂くといったような事を無視した宗教から、ま、出てきたお話だろうと思うですね。座禅を組んで瞑想を組んでおると様々なやはり幻覚症状がおこってくる、ね。それはだから、程度の低い事であって、そのまあ、一つ向こうにあるものに触れなければというふうに説いておられましたが、私が、今度出しとります信楽の中には、神様から頂いた、果してこれが、幻覚症状であろうか又、御心眼に頂いたそういうような事が、只、幻覚症状だけ、いうなら、ノイロ-ゼの人が感じるような幻覚症状であろうか。
これは果して、天地と金光大神と私とが交流し合う、ね、一つの手立てを合楽には教えておられるとしか思われない、ね。
その絵の中にあります「無」という屋形船のような形でこう書いてるね。こういう事になれば、神徳が受けられる。神徳はもうこの世あの世を通して、あの世にも持っていけるもんだと書いてある。もう、その通りなんです。
そんならその「無」になる事なんかというたら大変な難しい事だろうというけれども、稽古に次第によっては出来るという事です。
本当に仏教的に「無」になれというのではない、ね。情もあってよければ欲もあってよい、ね。只、それに我情我欲があっては神徳の中に生かされてあっても、神徳の中に生かされてある喜びに触れる事は出来ないという事ですよね。
どうぞ。